「十字架」を読んだ感想。

 

この年齢になって初めて重松清さんの作品を読んだ。その最初を飾ったのが「十字架」

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あらすじはというと、とある中2の男の子がいじめを理由に自殺する。その男の子は遺書を残すのだが、そこには4名の生徒の名前が書かれていた。「許せない人」「お誕生日を祝いたかった人(=好きな人?)」そして「親友」だ。親友に名前をあげられた主人公は自分がなぜ親友として紹介されているのか、身に覚えがなくて同様する。「お誕生日を祝いたかった人」に名を挙げられた女の子もだ。1人の死にその家族だけでなく、名を挙げられた少年少女がその後どのような道を辿るかについて描かれた物語だ。

昨今いじめで自殺する生徒は増えたと思う。そんな事実を重く受け止めていたとしてもいじめを事前に防ぐことなんてできない。だって一度に30人も相手にする担任にいじめを察知しろっというのも不可能な話なわけで。しかし学校側はいじめが発覚した時にどのような対処をとるのかが世間がかなり注目しているということを十分に理解しておかねばならなくて。なかなかどうして学校側は大きな変化を求められている、ということなのかもしれない。

そしてさらに問題になるのは「傍観者」を貫く周りの生徒たちの存在だ。やはり皆「次いじめられるのは自分かもしれない」という恐怖には勝てないのだろう。いじめに対し何もしないという選択をすることは果たして罪なのだろうか。私はどうしても悪いと断言する善意を持ち合わせていない。私も黙って見ているその他大勢でしかないと思うから。やはりいじめを未然に防いだり、周りの人が勇気を出して行動するとシチュエーションというのは望めないとしておくのがスマートではないだろうか。

このように「いじめ」という題でかなり深くディベートできるのだ。善と悪という比較的わかりやすい対比だからなのかもしれない。

しかしこの「十字架」という作品は初めから終わりまでただ単純にいじめについて書かれているというわけではない。終始「残された者たち」に視点が当てられているのが面白いのだと思う。”あなたの知り合いまたは友人が、いじめでなくなったとしたらこのような道を辿るようになるかもしれないよ”と仄暗い予感めいたものをそこはかとなく放つのだ。

いじめる側は自分がいじめを続けることでその先どうなるのか、そのイメージができないんだと私は考えている。誰かをいじめても、自分の心は満たされないどころかかえって自分の心を消費し浪費することになるのだ。その事実を言葉尻だけでも知っていたなら他者をいじめて悦に入るというなんとも空々しい行為を行わずに済むのだ。

そういうことを知るためにも「十字架」は読むべき。道徳の教科書にすれば良いさえ思うわ。教育委員会に購入を検討してみることをお勧めする。

 

「十字架」を読んで中学生は道徳について学べば良いのかもしれない。