13階段を読んだ感想。

 

また積読を消化してもいないの本を買ってしまった。そのうちの一冊が高野和明さん著の「13階段」だ。

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この作品では冤罪で死刑になろうとしている人を刑務官と、傷害致死罪で刑務所に入っていたがこの度仮釈放になった青年が阻止するために奔走するという話だ。

「冤罪」と言うテーマでも一冊物語が書けそうだが、こちらの作品では「死刑制度」について深く考えさせられる印象がある。そもそも死刑制度を採用している国はかなり少ない。ヨーロッパ諸国はほぼ廃止しているようだが、大国アメリカと中国は採用している。日本もいまだ採用中だ。

個人的に死刑制度は止めた方が良いのでは・・・。と思ってしまう。人間が人間を裁くことにそもそも抵抗があるんだけど、それは自分が大切な人を理不尽に失うという経験をしたことがないから言える戯言でしかない気がしないでもない。家族や恋人、友人が全く知らない赤の他人に無残に殺されたらそりゃ人はその殺人者の死を心から願うだろう。それを合法的にオーケイし実際に実行するのが死刑制度なのだ。良いか悪いかは置いておいて、このようなよくない意味での命の応酬はどう折り合いをつけるのかがいつも問題になる。金銭で慰謝すれば良いのか、はたまた命は命で償わなくてはならないのか。正義と正義がぶつかりいつも答えが出ない堂々巡りロード突入。

また、この作品では死刑制度の脆さと危うさに直に触れられている。最終的に死刑の決断を下すのは日本では法務大臣だ。しかし大臣はそ死刑の決定をすぐには下したがらない。そりゃそうだろう。自分とは全く無関係な他人であったとしても自分の判一つで人一人の命を奪えるのだ。どうやらその決断をできるだけ先送りにしたがる傾向があるようだ。一人の人間としてその心理動向には共感できる。どういう理由であれ積極的に人の命は奪いたくない。それが犯罪者であったとしても。

印象的な一説があった。”神は人間を許すけど、人間は人間を許さない”

死刑囚には教誨を受けられる。神父さんやお坊さんによって神の教えを受ける時間だ。その場ではどうやら神の許しについて語られるようだが、死を前にしている人間にそんなことって意味あるの?って思ってしまう。もちろんその短い時間で救われる人もいるのかもしれないが、そんなことで神を信じるなら、生きている間に自身の信仰を貫き通した人が浮かばれない気がしてならない。一種のパフォーマンスなんじゃないかと思う自分の仄暗さが露呈する。教誨は死刑囚のためのものではなく、それを実行する刑務官のためのものなのかもしれない。

高野和明さんの他作品「ジェノサイド」にて、アメリカの大統領は核ミサイルのボタンを簡単に押せるが実際に核ミサイルを落としたり照準を合わせるのは別の人だ、ということがまざまざと示されている。「13階段」では日本の死刑執行も死刑執行を決める人と実際に執行する人は異なることにさりげないが色濃く触れられている。いつも人の命を左右する決定を下す人は決して自分の手を汚したりしない。その汚さとどうしようもなさに高野和明さんは迫ってくる。「この引き裂かれた現実に目を背けるな」って感じで。

”目には目を、歯には歯を”という太古のハンムラビ法典から人類はあまり進歩していないことが窺える。ちょっと絶望。文明がいくら発展しようとも人間の本質はいつまで経っても変わらない。ずっと不自由なままだ。この不自由な世界でいきる人間は自分を許せるか、許そうとする決断を下せるかによってその先救われるかどうかが決まるような気がしてならない。

許しの少ない世界でいかに自分は行動するのか、時には自分の行いを振り返り修正や再検討を繰り返していきたい。