どんな時でも無になる瞬間を。

 

色々あって今職場が暇だ。私の職場=病院なんだけど、この時期暇な理由って言えばそりゃコロナだ。コロナ関係で今暇なんだ。なぜ暇かについては追々記載していく。日々コロナ騒動で忙しく過ごしていて、正直毎日休憩をとる暇もなく走り続けていた。しかし今はそのコロナに仕事を奪われるという現実に戸惑いを隠せない。のだが、時に暇は良いものだと思う。

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今まで「忙しい」を理由にし、目を背け徹底的に後回しにしてきた掃除や書類と向き合う。書類の断捨離に今勤しんでいる。「やっぱ時代はペーパーレスやんな!」とほぼほぼ捨てると心に強く決めたのに、処理する紙の量の多さにクラクラしている。誰も代わってはくれないからひたすら紙とシュレッダーに向かい合う。シュレッダーが紙をどんどん飲み込んでいってくれるけど、供給過多なのかすぐに胃袋が一杯になる様子。すぐに「ゴミを捨ててください」の表示。「まだいける」とシュレッダーへの期待が大きすぎる私は、健気なシュレッダーの表示を一旦無視し、そのまま紙を飲むことを強いる。最初は飲み込んでくれるけど、またゴミ捨てての切実な訴え。とりあえず胃袋に詰まるチリチリ細々した紙たちを足で踏み、力技でそれらの体積を縮める。よし、これでもう一回。シュレッダーにデザート的ポジションの紙を飲み込ませる。また紙を飲み込んでくれるけど、すぐに負けじと「ゴミ、捨てて!」のカウンターパンチを喰らう。

シュレッダーも機械だからここは私が大人にらならんと。と自分をたしなめ、ようやっとシュレッダーの胃袋であるゴミ袋を新しいものに交換する。

はい、今永遠とこのシュレッダーとの対話という単純作業を繰り返している。同じ動作の繰り返しだから脳が動かない。脳の労働を強いらなくても、脊髄反射的にできるレベルの単純作業なんだろう。だから手はあくせく働くが脳は一切働かない。そこには私の無があるだけ。無は誰とも共有できないけど、私はシュレッダーを虐待している時無になる。無になり、脳の活動を止めることで私は癒される。余計なことを考えずただひたすらに同じことを繰り返す。無に没頭して自分の覚醒レベルを落とし、悩み事や心配事からその時だけは解放されるのだ。

毎日あくせく生きて、大変だけどそれなりに楽しい時間を過ごしている。でも不安から解放される時間は少なく、今の不安は別の不安に塗りつぶされ見えなくなるだけという無限ループに陥っている。ゴールのないマラソンしているみたいではい、絶望。けど頭を空っぽにして、考えないようにすればそれは幸せと言えるのではいないか。目を逸らす力、現代を生き抜くに外せないスキルと言えよう。私はまだシュレッダーの力を借りなくてはならないけないのだけれど。